2.4 茎棟の掟4

○七代忠広

13 刀 文化後期頃(一八一〇~一六)
14 脇指 享和頃(一八〇一~〇四) 

七代目の忠広について細かく案内したものが少ない。作品の紹介も皆無で、従来の書物では生来の病弱説を伝えているものが多い。近年に至っても「七代の作品は見たことがない」と述べたものもあったように思う。 

だが、七代忠広の作は確実に遺されており、『古今鍛治備考』の記述を信じれば、享和二年(一八〇二)時に三十二歳とあるので、明和八年(一七七一)の生まれとなる。文化十三年(一八一六)二月に四十六歳で急死。父の死から数えて八十四日目のことであり、忠吉の襲名はなかったようである。銘鑑類は近江大掾受領を伝えているが、その事実はない。 

○八代忠吉

15 刀 天保十年頃(一八三九)
16 脇指 天保十年頃(一八三九) 

八代忠吉は幼少時に七代忠広の養子となって忠吉家を継いだ人である。実母は七代忠広の妹。伯父の養子として母の実家を継承し、多くの作品を遺している。 

過去の書物では、「上三代に次ぐ名工で、忠吉家の掉尾を飾る」とするのが八代忠吉を評した意見で、諸書の記述内容は大むね一致している。だが、この評価に関しては少なからず修正を必要としているのが実情かと思われる。 

八代忠吉も近江大掾受領となっているのが銘鑑の記述である。しかし、「左衛門尉」から「内蔵允」に変わっているだけで、国司の位の受領はない。これについては後述する。安政六年(一八五九)歿、五十九歳。

(15 佐賀県立博物館蔵) 

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