4. 二尺を超す大脇差

今日、刀と脇指を区別するとき、二尺(60.6cm)を境としてそれ以上を刀、それ以下を脇指とするのが通例である。この線引きは、登録制度に伴う役所の事務処理に起因するところが大きいようにも思う。然しながら、刀剣鑑定学は事務的発想だけですべてが測れるほど単純なものではなく、二尺を越した脇指もあれば、二尺以下の寸法でも刀として作られた物もある。

これまで述べたように肥前刀の大前提は、刀を太刀銘に切って茎棟に多少の肉を付け、 脇指、短刀は刀銘に切って茎棟を角に仕立てる。この事を予め修めておかないと、誤認鑑定を招いて偽物扱いし兼ねない作品が存在する。二尺を越した作で刀銘に切った肥前刀がそれであり、この作例は決して珍しいことではない。二尺以上の作品は太刀銘でなければいけないという単純な肥前刀鑑識でると、二尺を越して刀銘の肥前刀は安直に「偽物」として片付けられる可能性は極めて高い。

一例を挙げると、図13中の初代忠吉五字銘(56)に偽物の烙印を押してしまった愛好家が居られたと聞く。「二尺を越していて、刀でありながら、太刀銘でなく刀銘になっている」がその理由だったらしい。この愛好家は肥前刀の掟から外れているので「悪い」と判定されたことになるが、その判定基準は表か裏かの銘の位置だけである。肥前刀の大前提である茎仕立ての掟をご存じなかったが故の失敗談であるが、押形の区下に表示した通り、この初代忠吉五字銘は茎棟を角に仕立てており、寸法が常より長いだけで、銘の位置と茎棟の仕立てが約束事に従って共同歩調を示しており、肥前刀の掟に適った「脇指」である。これがたとえ市井の一愛好家の言動であったにせよ、「二尺を越した物に刀銘が入っていては偽物」と言われ、正しい判断をしてもらえなかったのは残念である。

この五字銘は慶長十四年(一六〇九)頃の作で、茎の保存状態は多少悪いが、偽臭は全くなく、地刃の作域には初代忠吉の個性と格調があって作位の高さを示している。そこに気が付けば決して偽物扱い出来る代物ではない。相応の鑑る眼があれば半端な物でないことに気付かねばならない。正真の作と判断出来れば、あとは何故刀銘なのかを学習すれば良い訳で、自己啓発に連なって行くことにもなる。

本筋の鑑識である茎仕立ての掟を修得出来ていなかったことが誤認鑑定を招いた最大の原因であるが、この茎棟の掟は地元でも一部の研究家が識っていただけで、中央でたとえ権威といわれた著名鑑定家と雖もご存じなかったはずである。従来、古説の中では決して見聞することが出来なかったことが何よりの証拠で、学問上大切なことでありながら、愛好家諸氏が学ぼうにも学べなかったのが、これまでの実情である。因みに、筆者がこの事を論考として『刀剣美術』に出したのは平成七年九月(一九九五、第四六四号)であるが、 それ以前に、茎棟の仕立てが長い物と脇指以下の短い物で区別されていたことを明確に記述した書物は一書もない。この点、肥前刀鑑定学における古説の不備の最たる部分である。

この種の大脇指について、過去の書物で脇指と気付いて論考に及んだ例は勿論なく、そこの解説に使われた文言は“刀の作であれば太刀銘に切るのが肥前刀であるが、例外として刀銘に切ったものがみられる。それ等は二尺を僅かに越した寸詰まりのものがほとんどである。”といった内容のもので、例外としかみられていない。例外ということは、分類上は刀と判断されていることになる。諸般の事情から、裏付けがなかった時代の書物造りの苦しさと解して、とりあえず同情はする。然し、上の文言は観た物の状況をそのまま文章にしただけのことで、学問としての解説になっていない。何故、二尺を少し越した物に刀銘を切ったのかという追究がなされないまま、例外として処理されている。これだと、読む立場は消化不良を起こすだけのように思われてならない。

図版で案内の通り、二尺を越した刀銘の作は、茎棟が総て角に仕立てられており、刀銘で角棟ならば二尺以上の寸法でも「脇指」となる。これが裏付けを以て論ずる真の肥前刀鑑定学であり、この種の作品は例外として扱えるものではなく、掟通りの肥前刀である。

二尺で線引きをして刀と脇指を区別することに慣れてしまった今日、二尺を越した脇指など、ともすれば違和感を覚えるかもしれないが、肥前刀には上記のようなこの派特有の掟が存在していた事実を認識の上、その違和感をひと先ず白紙に戻しておくことも大事である。刀として作られたものであれば、二尺を少し出た寸詰まりであっても銘は掟通り太刀銘に切り、茎棟は小肉の仕立てとするのが肥前刀の約束事である。

二尺を越す肥前刀の大脇指に関連するものとして、正広家に興味深い資料が残されている。刀鍛冶であった正広家には、主家である佐賀藩・鍋島家から出された沢山の注文状があり、それ等の古文書は歳月を越えて大切に保管され、伝承されて来た物である。その多くの文書の中に「並鍛長脇差注文」という藩からの一枚の注文状が含まれている。その注文状には、藩から指示された寸法が「二尺一寸七分」と記入されている。

佐賀藩から出された「並鍛長脇差注文状」には、寸法が2尺1寸7分(65.75 cm)と記されている。

この注文状を以て二尺を越した大脇指が作られていた事実を剣界に伝播するもので、古い書物の解説で“二尺を少し越した寸詰まりの作には刀銘に切ったものもある”と述べて例外扱いしたことは、肥前刀の学問上では誤説となる。例外ではなく、たとえ寸法が長くても刀銘であれば「二尺を越した長寸の脇指」とするのが正しい肥前刀鑑定学であり、二尺以下だけが脇指ではないということである。

ところで、この注文状に誌された宛名は二代正広と四代忠吉の二人である。忠吉家で新三郎の俗名を名乗ったのは三代と四代の忠吉であるが、書面の正広は「橋本河内殿」と官名で記されている。この「河内」が初代正広であれば連名の「橋本新三郎殿」は受領前の三代忠吉となるが、この年代の忠吉家の当主は二代忠広であり、宛名は当然「橋本近江殿」と書かれて正広の河内殿と連名になっているはずである。従って、この注文状の二名の宛名は二代正広と受領前の四代忠吉となる。

元禄六年(一六九三)に二代忠広が歿し、その跡を継いだ四代忠吉は同十三年(一七〇〇) に近江大掾を受領、二代正広はその前年の元禄十二年(一六六九)八月に歿しているので、日付けに「霜月」とあれぼ注文状が出されたのは元禄十二年は関係なくなる。従って、この注文状の日付けは元禄六年から同十一年までの五年間に限定されるが、その五年間に「戌ノ年」に該当するのは元禄七年(一六九四)であり、この注文状の日付けは「元禄七年戌ノ霜月六日」ということになる。

この、元禄七年の日付けと忠吉家の四代目当主・新三郎との関連は、後の方の論考と密接に係わってくるので是非記憶にとどめておいていただきたい。

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