2.6 茎棟の掟6

茎棟の掟は、忠吉各代だけのものではなく、その一門に属する傍系の諸工達も極く僅かな例外を除き、悉く約束事に従っている。同じ肥前でも、忠吉系と門流を異にする宗次系、並びに市太を名乗る一派などは、忠吉系の掟では測れない。宗次系は、長い物と短い物の区別はなく、均しく丸棟で仕立てることを原則としている。原則としているだけでそうでない物もある。市太については調査不足を否定しないが、必ずしも一定ではなさそうである。

○初代正広

21 刀 承応頃(一六五二~五五)
22 脇指 寛永二十年頃(一六四三)

初代正広は、初代忠吉の婿養子・吉信の長男であり、本来ならば、忠吉家を継承するはずの初代忠吉の嫡孫。おくれて誕生した平作(二代忠広)が成長するに及び、寛永年中に吉信が忠吉家から分家して出来たのが正広家である。従来の説によれば、寛永五年(一六二八)に河内大掾受領となっているが、実際の受領は寛永十八年(一六四一)である(これについては後述す る)。寛文五年(一六六五)歿、五十九歳。
(21 佐賀県立博物館蔵)

○初代行広

23 刀 寛文頃(一六六一~七三)
24 脇指 寛文頃(一六六一~七三)

初代正広の弟。次男ではあるが兄の正広とは十二歳違い。正保五年(一六四八)出羽大掾、寛文三年(一六六三)出羽守。天和三年(一六八三)歿、 六十六歳。

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