3.1 既存の書物にある茎棟の記述を検証する

古説を検証する場は後の方に設けてはいるが、茎棟については前後の関連もあり、この場で検証する。

前述の通り、茎仕立ての法則は肥前刀に欠かすことの出来ない重要な「掟と特徴」であるが、過去の多くの書物では、茎の姿形と鑢目までは忘れずに書かれていても、茎棟まで目を向けたものが少ないのが実情である。これまで筆者が調べた書物の中に、茎棟について実証を以て整理し、真の学説として教えている例に接しないのが残念である。手近な書物の中から茎棟の記述部分を抄記して検証してみたいと思う。加えて、多少の批評に及ぶことにもなるが、書名と著者名はひと先ず省く。

一. 昭和初め頃の某書

  • 初代忠吉 - 角棟または小肉棟。忠広時代は角棟。
  • 二代忠広 - 角棟。
  • 三代忠吉 - 角棟。
    四代以降の記述なし。
  • 正広、行広、忠国はいずれも小肉棟。
  • 伊予掾宗次 - 丸棟。

二. 昭和四十年代初め頃の某書

  • 肥前刀の一般的作風欄では“茎の棟は角棟が多いが、小丸棟もある。”と解説されている。
  • 初代忠吉 - 角棟のもの、また少し肉のあるものもある。
  • 二代忠広 - 角棟。
  • 三代忠吉 - 角棟。
    四代以降の記述なし。
  • 伊予掾宗次 - 丸棟。
    正広、行広、忠国は記述なし。

三. 昭和四十年代半ばの某書

  • 初代忠吉 - 角棟。
  • 二代忠広 - 角棟。
  • 三代忠吉 - 角棟。
    四代以降の記述なし。
  • 伊予掾宗次 - 丸棟。
  • 忠国、行広 - 角棟。正広の記述なし。

四. 昭和四十年代末頃の某書

  • 初代忠吉 - 角棟でたまに肉のあるものもある。
  • 二代忠広 - 角棟。
  • 三代忠吉 - 角棟。
    四代以降と傍系の諸工の記述なし。

上四書の記述をまとめて評すれば、折角茎棟のことまで解説していながら、読者にとっては何の役にも立っていない。と言うより、この内容であれば茎棟の記述は無しの方が、 むしろ読者のためになっていたであろう。三を除き、初代忠吉の茎棟は角もあれば肉の付いたものもある、という漠然とした記述になっている。確かに角棟もあれば肉の付いた棟もあるので「その通り」と言えばその通りである。敢えて意地悪な表現をすれば「見事な解説」とも言える。

だが、この記述を別の角度からとくと検討していくと、角棟でも肉の付いた棟でも、どちらでもよろしいということになってしまう。何も知らない初心者がこの文章を読んだ時、日本人としての国語解釈はそうなるはずである。本来の掟とは逆に、刀の茎棟が角になり、脇指や短刀の茎棟に肉が付いていても疑う必要はない、と教えてしまったことになる。著述者が相応の知識を備えぬまま、実作調査を棚上げにし、安易に取り組んで記述した結果の弊害は計り知れないものがある。長い物の茎棟には肉があり、脇指、短刀の短い物は角棟になるという肥前刀の約束事を明確に伝えねば教本としての役目を果たせない。三の記述に至っては宗次以外はすべて“角棟”となっている。これで行くと、忠吉系の肥前刀は 全部角棟の仕立てという解釈になってしまうが、本当の掟が存在する以上、このいい加減さは受け入れる訳にはいかない。四書とも二代忠広と三代忠吉は“角棟”で足並みが揃っているところなど、どう考えても借論の可能性を否定出来なくなる。

肥前刀の茎棟の掟は、中央の鑑識者層に知られていなかったもので、それ故に抄記の上四書が、実作調査を地道に重ねて得たご自身の知識で書かれたものではない、という図式がはっきりと浮かんで来る。十二分の調査を基に、十分な統計と分析があれば、大切な事に気付くことが出来たろうと想う。四書の中には、他説を踏襲して書かれた物が恐らく含まれていると思われるが、その場合、身の周りに存在していた他人ひとの説を安易に定説と盲信し、踏襲する他説の信頼性が問われなかったものと想像する。

尚、抄記した上四書の記述は、必ずしも原文通りではない。

昭和五十年代に入って出された書物の中に、肥前刀の茎棟を述べたものが一書ある。その書物から茎棟の部分だけを原文のまま抄記し、併せて検証する。


……(前略)……刃方はほとんどが角、棟方は角がやや小肉がつき、丸棟は初代忠吉・四代忠吉等に稀にみられる。代別にとらわれず薙刀では茎の棟は丸棟が多い。土佐守忠吉はほとんどが丸棟、傍系では伊予掾宗次系は必ず丸棟である。このように述べると茎の棟が丸いものが多くあるように思われるが肥前刀全体から見ればほんの僅かである。

上の記述は肥前刀全般として説かれた部分である。然し、意欲的ながらもその内容は前の四書と選ぶところがない。長い物と短い物で茎棟の仕立て方に約束事が存在していた事が書かれていない。“棟方は角かやや小肉がつき”の表現で終わっているこの解説は、脇指や短刀が小肉棟であっても認められるし、刀が角棟になっていても疑う必要はないという結果である。肥前刀の最も大切な部分が欠落した誤説となっているのが残念である。上記の中から更に検証部分を抽出する。

丸棟は初代忠吉・四代忠吉等に稀にみられる

刀に関してはこれで間違いないが、脇指、短刀は角棟になることを説かないと肥前刀の理屈に合わない。それが学説である。

土佐守忠吉はほとんどが丸棟

土佐守も忠吉の一族であり、一門の掟を守って短い物は角棟に仕立てる。矢張りそこを区別して掟として説いておくべきであるが、上の表現だと寸法の長短・類別に関係なく丸棟ということになってしまう。

伊予掾宗次系は必ず丸棟である

この一派は忠吉一門とは別系であり、忠吉系の掟を宛がう訳にはいかない。この流派は忠吉系のような明確さはなく、長い物と短い物で茎棟を区別しているということはない。細かく言えば、この一派は余り統制がなく各工の意志や個性で作業に臨んでいた可能性もある。例を挙げると、初代宗次の平造り脇指に角棟の茎があり、寛文より少し前と目される「肥前国住源盛次」銘の刀が丸棟ではなく角棟に仕立てられている。更に、同系の中では初代宗次より少し先輩と思われる刀工に家次が居るが、彼の薙刀の作が丸棟とならず、 小肉ごころがあるものの、ほぼ角に仕立てた物が一口遺されている。無論、どれも本歌の作である(以上三口、佐賀県立博物館蔵)。

従前においては、筆者も宗次を含むこの系列の諸工達はすべて丸棟であろうと観ていたが、今少し調査の必要性を認めるものである。類別に関係なく丸棟が多いことは確かであると言える。

以下に、この書物の中で述べられている初代忠吉から九代忠吉までの茎棟の記述を転記する。

初代忠吉

茎の棟は薙刀はほとんど丸棟で、住人時代の刀には稀に丸棟がみられるが、他は刀・脇指・短刀のいずれにも小肉がつき刃方も同様である。

同 忠広時代

茎の棟は角で小肉がつき、忠吉時代に稀にみられるような丸棟はない。刃方も小肉がついている。

二代忠広

茎の棟方、刃方はほとんど切りに小肉がついている。そして丸棟に近いものも丸棟もまだ経眼していない。

三代忠吉

茎仕立ては、刃方、棟方には小肉がつき、(以下省く)

四代忠吉

茎仕立ては、茎の刃方、棟方共に切りに小肉がつき、(以下省く)

五代忠吉

茎の仕立ては、茎の形が忠広銘と忠吉銘のものでは著しく相違している。両者共に茎の刃方、棟方は切りで小肉がついており、(以下省く)

六代忠吉

(茎の姿形と鑢目の記述はあるが、茎棟に関する記述なし。)

七代忠広

(茎仕立てに関する記述は一切なし。この書物の七代忠広欄の記述から推測するに、発行された昭和五十年代前期まで、同書の関係者は七代忠広の作品を確認出来るまでに至っていなかったと思われる。記述内容はそう伝えている。)

八代忠吉

茎の仕立ては、刃方棟方にやや小肉がつき、(以下省く)

九代忠吉

(茎仕立てに関する記述なし。)


以上であるが、記述のない六代、七代、九代を除いた各工の茎棟は“切りに小肉がつく”という表現に終始しているため、類別に関係なくどの作品の茎棟も統一されていると解釈され兼ねない。長い物と短い物の間に、茎棟の仕立て方が明確に区別されていた事はどこにも出て来ず、殊に、初代忠吉の説明で使われた“刀・脇指・短刀のいずれにも小肉がつき”の文言は少なからず問題となる。茎棟の記述がなかった六代、七代、九代の三工にしても、先祖からの伝統と約束事を重んじ、掟通りの茎仕立てをやっていたことは冒頭で述べている通りである。

然るべき所から出された書物ではあるが、我が国最先端の鑑識者層においても、昭和五十年代まではまだこの位置であったことを識る。それから二十数年が経過、無論のこと、 今の時点では違うであろう。

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