2.2 茎棟の掟2

肥前刀の茎棟のことを筆者が『刀剣美術』で述べたのは平成七年(一九九五、第四六四号)であるが、それ以前に、茎棟の仕立て方に肥前刀の大切な「掟と特徴」が示されていることを識っていた愛刀家は少なかったと思う。識りたくても過去の書物には出ていない。断片的に茎棟の様子に触れた記述はあるが、長い物と短い物で茎棟の仕立てに区別があることを明確に説いた書物はない。残念なことに、昭和五十三年(一九七八)刊の『肥前刀大鑑』ですらそうである。肥前刀にあって最も大切な、この「掟と特徴」は、地元の一部を除けば、刀剣界の鑑識者層に識られていなかったということである。 

○三代忠吉

5 刀 寛文後期頃(一六六六~七三)
6 脇指 寛文八年頃(一六六八)

三代忠吉は、入山形から栗尻へ茎仕立てを変えているが、その時期は寛文八年から同九年頃と目される。 押形6の脇指は「忠」の心の第一画を左下から右上へ打ち上げていて、鏨の向きが普段とは逆である。この忠を切った銘に入山形と栗尻の二種があり、年代としては寛文八、九年頃の短い期間に限られるようである。入山形が寛文八年(一六六八)頃、栗尻が寛文九年(一六六九)頃と見て大過はないものと思われる。
(6 佐賀県立博物館蔵)

○四代忠吉

7 刀 正徳、享保頃(一七一一~三六)
8 脇指 元禄末頃(一七〇〇~〇四)

貞享三年(一六八六)に父・三代忠吉が五十歳で歿した時、四代目は十九歳。父の俗名・新三郎を継ぎ、健在であった祖父・二代忠広の指導を受け、祖父の最晩年には代作、代銘を務めたはずである。元禄六年 (一六九三)、二代忠広が歿して父の匠銘・忠吉を襲名、この時二十六歳。従ってこの工に忠広の銘はない。延享四年(一七四七)歿、八十歳。
(7 佐賀県立博物館蔵) 

  •  肥前刀備忘録のご紹介
  • 忠吉系肥前刀の本質を追求し、従来からの肥前刀の定説を大きく書きかえる画期的な論証を、豊富な図版とともに展開します。より分かり易く体系化した論考は、初心の愛刀家から研究者に至るまで、肥前刀研究の決定版です。
  •  A4判・上製本貼函入・560ページ